欲望の船(5)



街は本当に何の変哲もない港町だったし、日ももう少しで暮れかけようという時間だったから、一旦部屋に入って荷物を降ろすと外をぶらつこうという気にはなれなかった。マイクをはじめ見知らぬ人に囲まれて気疲れしていたのかもしれなかった。夜に飲むドリンクを買いにホテル近くの売店に行って戻ると、「おーい」とテラスから声をかけられた。


アーバスに乗り込む時に見かけた日本人のオバサンだった。



テラスでお茶していたらしい。ツアーには日本人は彼女と俺しかいないから、彼女も日本語を喋りたいのかもしれなかった。俺も腰を下ろして彼女と話をしてみることにした。



年の頃は40、1、2くらいか。フリーの長期旅行でのんびりとベトナムを回る予定で、ハノイに一週間ほど滞在したあと中部のフエ、ホイアンなどに立ち寄っていき、南のホーチミンへと行くのだという。俺も旅で起こった事や見てきた事、このツアーの話などを彼女とした。その中で彼女は旅行の話が実にしやすいという事に気がついた。



旅行好きでない人には少しピンとこない話かもしれないが、『相手の旅行話を、自分の見てきたものとはまた別の体験だと認識し、そしてそれはその人にとっては楽しい(思い入れのある)体験なのだと理解しながら』話ができる旅行好きの人は意外と少ないのである。




ちょっとこれではわかりにくいと思うので、一つの例をあげよう。


ある日俺の座っている隣で知り合いの旅行大好き女A&Bが旅行の話を始めた…。



A 「イギリスの○○って行った事あるんだけど、すっごくよかったよ。あそこは本当に素晴らしいのよ」
B 「○○ですかぁ…あそこよりも△△の方がもっと綺麗だけどね」
A 「ム…私は鉄道で行ったんだけど、そこへ行くまでの景色もめっちゃよくって」
B 「ええ!?鉄道で行ったんですか?バスで行った方が鉄道よりもずっと安いんですよ??なんでそうしなかったの?」
A 「ムム…い、いいじゃない鉄道の方が早く○○まで行けるんだから…じゃあ○○の近くの□□っていう有名レストランの料理食べた事ある?死ぬほどおいしかったわぁ」
B 「ムムム…それはないけどぉ…、で、でも私はメキシコでサボテンのステーキ食べた事ありますよ。Aさんはありますか?」
A 「それはないけど…えーとえーと、メキシコだったらサボテンより○△の方がおいしいわよ。○△の有名なレストランがあってね、私はそこで食べたんだけど、あなたも今度そこで食べてみなさいよ……ね、そうしなさいよ!…」




俺はこの話を隣で聞くとはなしに聞いてうんざりしていた。Aは単に○○がいいという話を最初したかっただけなのだが、まずBがAよりイギリス通なのだと暗に言いたくて、△△のがいいと言う。Aは○○いいよねー、とか、そうなんだ。すごいね!って言ってもらいたかっただけなのだが、いきなり否定されたので鉄道の景色もよかったという追加情報を提示。が、Aより情報通でいたいBは安さという言葉を武器に鉄道をぶった切り。こうなってはAも応戦したくなる。
□□というレストランの事を話すが、これはBは体験したことがなかった、焦ったBはイギリスとは関係ないメキシコのサボテンの話を持ち出す。Aはそれを食べたことはなかったのだが、Bよりメキシコの事を知らないのだと思われたくなくて○△のレストランの話を持ち出した。という流れだ。両者とも、自分がしてきた体験こそがイチバンだと信じて相手を受け入れられなくなっているのだ。


Aの話に乗ってあげずにぶった切ったBもいけないのだが、結局お互いに『私の方があなたよりイギリスもメキシコも知ってるんだから!』バトルになってしまったのである。このバトルはどうやら旅行者が陥りやすいバトルであるらしい。なんでか旅行好きな人間は、相手よりも自分の方がその国の事を知ってる!と言いたくなってしまうのかもしれない。
バックパッカーという言葉が流行った頃、そのバトルは『いかに安く旅をするか?』という題材で交わされる事が多かった。相手が何かを買ったと聞くと『俺はそれをもっと安く買ったけどね!』と言いたくなってしまうのである。人の旅行話を聞いてはそんな突っ込みしかできない自称貧乏旅行者、旅の達人に俺はうんざりしていた。


AとBの話に戻るが、この会話が円滑に済む方法は簡単である。
BはAの○○の話をそうなんだ!私もそこいったよ。本当に素晴らしいよね。と言い、私は△△というところも行ったよ。そこもよかったよ。と言ったら、Aがそうなんだ!次行くときは私もそこ調べて行ってみようかな…。もう少し詳しく話を聞かせて!といえばOKなのである。



別にこの通り話をするわけではない。話にセオリーが必要なわけではない。ただ『相手が体験してきた旅行は彼女にとって本当に楽しかった事なのだ』という認識と、それを受け入れて話を聞いてあげられる気持ちがあったら、変なバトルにならずお互い楽しく旅行の話ができるのである。


前置きが非常に長くなってしまったが、このベトナム旅行のオバサンは間違いなく人の旅行話を受け入れられるタイプの人間だったのだ。